北海道浦河町(三田市とゆかりのある地域 )

更新日:2024年11月01日

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三田市と浦河町とのつながり

 明治のはじめのころ、北海道日高地方の開拓に取り組んだ三田市出身の人々がいました。開拓の中心となったのは、鈴木清と澤茂吉(しげきち)です。鈴木清は、三田藩士の子として現在の兵庫県三田市に生まれ、赤心社という会社を立ち上げました。そして、北海道浦河町西舎・荻伏(おぎふし)地区で荒れ地や山林を切り開き、開拓を進めました。

 現地責任者として開拓団を指揮したのは澤茂吉です。開拓の作業は困難な仕事でした。赤心社の人々は何年もの間、冬の厳しい寒さや食べ物の不足、病気と闘いながら開拓を続けました。茂吉は、人々を励まし、様々な生活の工夫に取り組み、やがて豊かな農地の広がる土地を作り上げたのでした。これが今の浦河町荻伏の始まりとなりました。

鈴木清(赤心社初代社長)

鈴木清の写真

 嘉永元年(1848年)~大正4年(1915年)

 三田屋敷町で江戸詰三田藩家臣の長男として生まれました。造士館で学び、川本幸民の英蘭塾で英学を学びました。志摩三商会の設立に参画しました。

 明治13年(1880年)には、北海道の開拓事業を計画し、株主の募集を行い、赤心社を設立し初代社長になりました。

澤茂吉(北海道開拓に邁進)

澤茂吉の写真

 嘉永6年(1853年)~明治42年(1909年)

 三田屋敷町で三田藩士の長男として生まれました。造士館在学中英蘭塾にて英学を修めました。明治15年(1882年)、鈴木清の招きを受け赤心社に入社。翌明治16年、2代目赤心社副社長となり、北海道に家族を連れて浦河に移住し開拓事業を推進しました。

ふるさと読本

 三田市・三田市教育委員会は、令和4年10月1日、ふるさと読本6「北の大地に理想郷を築いた人々~鈴木清・澤茂吉物語」を発行しました。

 三田市・三田市教育委員会は、「三田出身の偉人や地域の自然や歴史、文化、伝統行事、産業などの地域資源を学習素材とした『ふるさと学習』を推進し、児童・生徒がふるさと三田のよさに気づき、大切に思う心を育む」ことを目的とした、ふるさと学習推進事業を行っています。事業の一環として、三田出身の偉人の活躍や生きざまを描いた 「ふるさと読本」を制作し、教材として活用しています。

ふるさと読本の画像1
ふるさと読本の画像2

北海道に新天地を求めて~赤心社の動き出し

 清は意欲的に事業に取り組み、明治11年(1878年)日本初の牛肉缶詰の製造事業で成功を収めました。そして、次の事業として北海道の広大な土地で開拓をしたいと強く思うようになりました。明治13年(1880年)3月、清は加藤清徳・橋本一狼とともに、豊かな資源のある北海道で開拓事業へ踏み出しました。社名は「赤心国に報ゆる」という意味で 「赤心社」と名付けました。

第一次開拓団~日高郡浦河の地

 明治14年(1881年)4月、第一次開拓団に参加する54名は赤心社の副社長加藤清徳の待つ浦河に向かいました。神戸港を出港した船は時化のため、到着が大きく遅れ、別の船で運んでいた機械類も千島択捉島まで流されてしまいました。そのうえ、ようやく到着した浦河での開拓作業も思うように進みません。当初は50町歩を耕す予定でしたが、この年は水害や害虫のため、わずか18町歩しか耕すことができませんでした。

第二次開拓団~澤茂吉が赤心社に入る

 清はどのような困難に出会っても 冷静で誠実、知性と行動力と人望を備えた同郷(三田市)出身の澤茂吉に協力を求めました。

 明治15年4月、茂吉は清の熱意を受け赤心社に入りました。茂吉は開拓がどんなに困難か理解していました。そして、開拓に人生をかけ、再び神戸には戻らない覚悟で、開拓に力をつくす決意をします。

 明治15年5月、茂吉は83人の開拓団を率いて母と妻と2人の子を伴い浦河の荻伏地区に入りました。

第三次開拓団~根気強く皆を励ます茂吉

 明治17年(1884年)5月、第三次開拓団20人が荻伏に入りました。

 この年もひどい凶作でした。来る日も来る日も雨が降り続き、わずかに残った大豆や小豆も大雨に流され小屋は水びたしとなりました。また、ネズミやイタチが大量発生し、作物に被害を与えました。

 それ以降も開拓事業は何度も危機を迎えましたが、茂吉は人々を励まし、熱心な信仰 をもとに一致団結して困難を乗り越えるように呼びかけました。これにより、どれほどひどい被害を受けても、開拓地は少しずつ広がっていきました。

今も浦河町荻伏に生きる赤心社

 赤心社の社長であった清は、社長として30年の間、「千難屈せず万難たまわず」と自分に言い聞かせ、牧畜、商店経営、しょうゆ醸造と多角経営を進め、赤心社の経営に全力を尽くしました。清のまいた種は、近代的価値を持つ新しい村として荒野に花を咲かせました。浦河に荻伏の土地がある限り、鈴木清の名は永遠に語り継がれることでしょう。

 鈴木清は惜しまれながら大正4年(1915年)3月21日、68歳で永眠しました。

荒野を開拓した功労者

 澤茂吉は、外見を飾らず真面目で、一言でいえば堅実で、人の見本となる人物だったと言われています。

 開拓を始めてから浦河の土地を離れず、現地で経営指導にあたった茂吉の限りない努力を忘れることはできません。澤茂吉は明治42年(1909年)9月15日、57歳で永眠しました。

 三田藩士の進取の精神を今に伝える「北海道開拓団赤心社」。

 その社長、鈴木清と現地責任者の澤茂吉。

 浦河町の荻伏支所前には、広大な荒野を開拓した功労者として、二人の胸像が建てられており、今なお多くの人々に慕われています。

胸像

ふるさと読本贈呈

ふるさと読本寄贈

 令和4年11月30日、三田市職員が浦河町を訪問しました。

 ふるさと読本の完成報告と贈呈を行い、今後の交流の方向性について協議しました。

三田市立三輪小学校と浦河町立堺町小学校児童のオンライン交流

 令和5年12月(1回目)と、令和6年3月(2回目)に、三田市立三輪小学校と浦河町立堺町小学校の5年生がオンライン交流をしました。

 オンライン交流では、総合学習で調べた、学校や市町の特色を相互に紹介する等という交流をしました。

小学校オンライン交流1
小学校オンライン交流2

浦河町のご紹介

 浦河町は、北海道日高振興局管内の南部に位置し、札幌市から約180キロメートル、帯広市から約150キロメートル、えりも岬から50キロメートル地点にあり、東は様似町、西は新ひだか町、北は日高山脈、南は太平洋に接しています。


 町の地形は、大部分を日高山脈とその前山が占めており、丘陵地を縦断して太平洋に注ぐ河川流域にいくつかの平野がみられ、地質は、河川流域を除き火山灰と泥岩、重粘土などの特殊土壌が、耕地面積の多くを占めています。

 山岳は、神威岳(標高1,600メートル)、楽古岳(標高1,472メートル)などがあり「日高山脈襟裳国定公園」の一角を占めています。

 町の総面積は、694.26平方キロメートルでその81%を山林が占めています。

 海洋性気候の影響で夏は涼しく、冬は温暖なため「北海道の湘南地方」とも呼ばれ、豊かで住みよい自然環境に恵まれています。

 町内には約200の牧場(生産・育成)があり、3,000頭以上のサラブレッドが駆け回っています。

 豊かな太平洋がもたらす海洋資源は豊富で、なかでも良質のダシ昆布「日高昆布」やサケ・マス、夏から秋にかけてのスルメイカは特産品となっています。

浦河町の位置

交流支援

浦河町との交流を希望する団体等はお問い合わせください。

この記事に関するお問い合わせ先

産業振興部 まちのブランド観光課
〒669-1595 兵庫県三田市三輪2丁目1番1号
電話番号:079-559-5012
ファクス番号:079-559-5024

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