三田ゆかりの偉人たちが二十歳だったころ

更新日:2022年12月23日

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明日の三田をになう皆さんに、古代から昭和時代までの三田ゆかりの偉人たちをピックアップし、郷土の先人が二十歳代だったころの姿を紹介します。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)626-671
有馬温泉の効能は、飛鳥の都にも知られていて、皇子は中臣鎌足らとともに温泉に来ました。若い皇子は馬で遠出をして、当時の三田にやって来ていたと言います。三田の民話に皇子はたびたび登場します。
皇子が20歳の645年、蘇我氏を倒して、大化の改新をおこない、後の朝廷のしくみをととのえました。

中大兄皇子と花山法皇

中大兄皇子(左)と花山法皇(右)

花山法皇(かざんほうおう)968-1008
若くして出家した花山法皇は、西国三十三所観音霊場を復興させるとともに、現在の三田市の花山院(東光山菩提寺)に立ち寄り、この地で余生を送られたと言います。
花山院は、現在、西国三十三所観音霊場の番外霊場として巡礼者でにぎわっています。
法皇が出家して仏の道を志した時が、19歳(986年)でした。和歌に優れ、後に残る歌集の選者となり、「有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風」などの歌を残したと言います。法皇は、三田の地に芸術と文化の種を植えたのでした。

九鬼 嘉隆(くき よしたか)1542-1600
九鬼水軍を率いて織田信長、豊臣秀吉に仕え、三重県鳥羽城の城主となった九鬼嘉隆は、はじめ、熊野灘に面した九鬼浦の海賊衆と呼ばれた一団の一人でした。
20歳代の嘉隆は、伊勢・志摩の国司北畠氏との戦に負け、伊勢湾沿岸の各地を放浪していました。27歳(1569年)のころ、織田信長の家臣滝川一益と知り合い信長に仕え、「九鬼水軍」を名乗るようになりました。
嘉隆の20歳の頃は、再起を期した放浪の旅のなかで、後に水軍の将として活躍するための準備をかさねていた期間だったと言えます。

天球院と九鬼嘉隆

天球院(左)と九鬼嘉隆(右)

天球院(てんきゅういん)1568-1636
天球院は、織田信長に仕えた武将、池田恒興の三番目の姫として生まれました。兄は後に世界遺産となる姫路城を築城した池田輝政で、その奥方は、徳川家康の姫君でした。
12歳(1580年)ころに、2代目三田城主となる山崎家盛と結婚し、三田で青春期を過ごしました。その後、32歳の時(1600年)、関ヶ原の戦いが起こりました。優柔不断な家盛は、徳川につくか豊臣につくか迷い、あげくに兄の奥方が人質となっている大坂城に天球院も入れようと言い出しました。天球院は、今こそ徳川に忠義を尽くす時と諭し、二人で大坂城に乗り込み、兄輝政の奥方を有馬温泉で治療すると口実をもうけ、池田の若君ともども救出に成功し、家康直々にお礼を賜り、その後の発展に尽くしました。

川本 幸民(かわもと こうみん)1810-1871
近代化学の祖、郷土の蘭学者川本幸民は、三田藩医の家に生まれました。幕末の黒船来航以後、押し寄せる西洋文明の波のなかで、西洋の書物を翻訳するだけでなく、実際に写真撮影やマッチの製作、ビールの醸造などの実験も成功させ、物事の変化の分野を「化学」という言葉を日本で初めて使って表現しました。幸民が東京に遺した書物や実験道具は、日本化学遺産に認定されています。
幸民が三田から羽ばたいたのは、19歳(1839年)のときでした。時の藩主に優秀さが認められ、兄について江戸に留学し、当時の最先端の蘭学、医学、英学などを学びました。
幸民の20歳代は、新しい知識をどんどん吸収し、のちの飛躍に備えた時期と言えます。

川本幸民と九鬼隆義

川本幸民(左)と九鬼隆義(右)

九鬼 隆義(くき たかよし)1837-1891
三田藩最後の藩主九鬼隆義は、幕末の藩運営が困難なときに藩政を立て直し、明治維新後は、福沢諭吉の勧めもあり、藩をあげて神戸に赴き、事業を興し商社や土地投機など多角的な経営を行ない、明治維新後も繁栄した異色の大名とも言われています。
隆義は、丹波国綾部藩(現在の京都府綾部市)の藩主九鬼氏の家に生まれ、22歳の時(1859年)、三田藩の第13代藩主として迎えられました。
三田の地に赴いた若き隆義は、六甲の山並みを見つめながら、その後の藩政改革と、港町神戸での活躍を思い描いていたのかも知れません。

甲賀 ふじ(こうが ふじ)1857-1937
三田藩士の父が早くに亡くなった甲賀ふじは、母とともに三田藩の御殿奉公にあがり、藩主の子どもたちのお守り役を務めました。主人である最後の藩主九鬼隆義一家が有馬温泉でキリスト教の宣教師に出会ったのを契機として、その子守りも務め、宣教師の帰国に従ってアメリカに渡り、そこで西洋の幼児教育に接しました。帰国後は日本の幼児教育の先駆者として、神戸、東京、広島で教育の発展に尽くしました。
ふじは、18歳の時(1875年)、神戸で開校した女学校(現在の神戸女学院大学)の一期生として入学し、宣教師の子どもたちの子守りも務めながら、卒業後は、学生の寄宿舎の舎監となり、外国人教師と日本人学生の橋渡し役として、後輩の指導に当たりました。
20歳代のふじは、西洋の知識を学ぶ夢多き後輩たちとともに、日本の誰もが知らなかった新しい子どもの教育を伝える、自分の将来の姿を思い描いていたのかも知れません。

白洲正子・次郎・甲賀ふじ

白洲正子・次郎(左)と甲賀ふじ(右)

白洲 正子(しらす まさこ)1910-1998
薩摩藩出身の明治の元勲樺山伯爵家の娘として生まれた白洲正子は、アメリカ留学の翌年に兄の紹介で、旧三田藩出身の役人を祖父に持つ白洲次郎と出会い恋に落ち、19歳の時(1929年)に、伊丹市で婚姻届を出しました。
正子は、幼少期から能の舞台に立ち、日本の伝統文化や美を見つめ、多くの美を探求するエッセイや著作をあらわしました。
正子と次郎の二人は、1940年に東京郊外(現在の東京都町田市)に古い農家を買い求め、「武相荘(ぶあいそう)」と名付け、農業を始めました。武相荘の本棚には、現在も旧版『三田市史』が並んでいます。
土にふれながら、次郎は戦後の新しい日本の設計図を描き、正子は日本の伝統美を探求し、父祖の地三田に思いを馳せていたのかも知れません。